はじめに

 

平成二十八年八月八日に現在の上皇陛下が、「おことば」として譲位の意向を表明され、

国会では平成二十九年と六月九日、

「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、天皇陛下退位、皇太子殿下即位に向けての

具体的な行事が進められていくことになりました。

そうした動きの中で、我々の麁服(あらたえ)調進事業もはじまりました。

徳島には、古代から阿波忌部氏により、天皇の代替わりに行われる重要な儀式である、

大嘗祭の供撰(きょうせん)の儀で供えられる 麁服を準備して来たという歴史があります。

記録資料が少なく、古代の麁服製作、阿波忌部氏の生活の様子は十分に知ることはできませんが、

皇室の大切な儀式に古くから徳島の先人が関わってきたことは事実です。

その後の社会の混乱期に、阿波忌部氏の麁服調進は中断し、大嘗祭自体も行われなくなる時期があり、

江戸時代に再び行われるようになりますが、阿波忌部氏の麁服調進はありませんでした。

江戸幕府が倒れ、明治政府による新しい国づくりが進む中で、徳島では麁服調進の復活に県をあげて熱心に取り組み、

大正天皇の大嘗祭に徳島からの麁服調進が実現することになりました。

以来、これまで対象、昭和、平成の大嘗祭に徳島から麁服を届けてまいりました。

そうした経緯をふまえ、私達はこの度にこれまでと同様に徳島の貴重な伝統文化である

麁服調進を実現するために懸命に取り組んでまいりました。

美馬市木屋平で、麻を育て糸に紡ぐまでを行い、吉野川市山川町が織り上げ、

令和元年十月二十九日に無事皇居へ、お届けすることができました。

麁服は、十一月十四日から翌十五日にかけて挙行された大嘗祭で、

悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)に供えられました。

これまで、地元の皆さま方をはじめ事業にご賛同いただきました県内外の皆さま方には、

多大なご支援、ご協力、ご指導をいただきました。

おかげを持ちましてこの歴史的伝統事業である麁服供納の大役を果たすことができました。

あらためまして、心より厚く感謝を申し上げます。

大嘗祭に麁服を調進するという事業は、他地域にはない徳島独自のものであり、

徳島に関わりのある人々が共有できる歴史的にも文化的にも大切な伝統行事であるといえます。

これからもこの伝統が守られていくよう願いを込めるとともに、

足跡を残すことで今後の参考となるようご高覧いただきますとともに、

今後ともご理解、ご支援をどうかよろしくお願い申し上げます。

 

 

 

大嘗祭とは

日本の天皇が皇位継承に際して行う宮中祭祀であり、皇室行事です。新天皇が即位した後に新穀を神々に供え、自身もそれを食します。その意義は、大嘗宮において、国家、国民のために、その安寧、五穀豊穣を皇祖天照大神及び天神地紙に感謝し、また祈念することです。

麁服とは

天皇が即位後、一世一度の「践祚大嘗祭」(せんそだいじょうさい)でのみ神御衣(かむみそ)としてお祀りする衣服の一つで、麻を織った反物です。

大嘗祭では、絹織物の「繪服(にぎたえ)」と合わせて神座に置かれます。

阿波忌部氏とは

「忌部」とは、古代よりヤマト政権の宮廷祭祀・祭具製作・宮殿造営を掌った名門氏族です。「忌部」とは穢れを忌むという意味。「忌」は、慎みを持って神事で穢れを取り去り、身を清めることを言います。阿波忌部とは、その忌部氏に奉仕した集団です。


阿波忌部氏と忌部神社について

 

 四世紀に成立したとされるヤマト政権の中で、忌部氏は中臣氏とおもに調停の祭祀に重要な役割を果たした氏族でした。

この政権中枢で活躍した中央の忌部氏は朝廷祭祀を遂行するために、各地に部民(べのたみ)という従属する人々を置いており、

その代表的なものとしてあげられるのが、出雲、紀伊、阿波、讃岐等の忌部(地方忌部)です。

中央の忌部氏は従属する各地の忌部氏から祭祀に必要な物資を徴集していました。

斎部広成(いんべのひろなり)の著した書物である『古語拾遺(こごしゅうい)』(八〇七年)には、

阿波忌部氏は、穀(楮(かじ)の木やこうぞを指す)や麻など繊維を利用する植物を栽培し、

大嘗祭の年には、儀式に使用する繊維や麻の織物である麁服(あらたえ)、及び様々な供え物を朝廷に納めており、

それが、郡の名前を麻植(おえ)とする由来である、といったことが書かれています。

阿波忌部氏は、繊維が利用できる植物、穀(かじ)、麻等を栽培し、加工する技術に優れ、麁服をはじめ、

神事に必要な木綿(ゆう:麻や穀から作った繊維)、織物、山野の産物などの製品を縦鼻することで朝廷祭祀を支えていたと考えられます。

阿波忌部氏と麻植郡についてその他の記録を何点かご紹介致します。

阿波忌部氏の存在についての最も古い記録は『正倉院宝物阿波国麻植郡調黄絁』銘(七三二年)で、

「阿波国麻植郡川島少楮里戸主忌部為麻呂戸調黄絁壱疋(一疋は反物で二反)天平四年十月」という納税の記録であるが、

このころ阿波忌部氏が麻植郡に居住していたということがわかります。

また、麻植郡については徳島市国府町の観音寺遺跡出土の木簡(六九〇年)に

「麻殖評伎珥宍(おえのこおりきじしし:キジ(雉子)の肉)二升」と記された納税の記録があります。

七世紀後半にはすでに麻殖の評(こおり:評は後の郡、つまり麻殖郡)が行政区域として存在していたことがわかります。

さらに『延喜式』の「神名帳」(九二七年)には、麻殖郡の忌部神社は式内大社(阿波の式内社で大社は三社)であり、

天日鷲命(あめのひわしのみこと)を祀る古代の阿波を代表する神社として登場します。

また『倭名類聚抄』(わみょうるいじょうしょう)(九三〇年代)には、当時の麻殖郡には、

正確な郷域は不明であるが「呉島郷(くれしまごう)」、「川島郷」、「忌部郷」、「射立郷(いたちごう)」があると記されています。

一方史跡として、山崎忌部神社の南側、標高約二四〇mの四国山地尾根上には、

麻植郡域独特の形態である忌部山型石室構造の五基からなる六世紀後半の忌部山古墳群が造設されています。

統率力を持つ有力者に率いられた人々が古墳群眼科の平野部、おそらく忌部郷で集落を形成し生活していたことが推定できます。

これらの状況から古代の阿波忌部氏の拠点は麻殖部の忌部郷であり、忌部神社はそこに鎮座し、

阿波忌部氏の精神的な統合の拠り所であったと考えられます。

そして古代の忌部郷は現在の山崎忌部神社とその周辺の平野部を中心とした地域と推定されております。

 

 

忌部山古墳

聖天寺から上り約680m、黒岩磐座遺跡、忌部の真立石を過ぎ、さらに山道を登った海抜230~242mの緩やかな尾根上には、古墳時代後期の横穴式石室をもつ5基の円墳郡が造営され「忌部山古墳群」と命名されています。

山崎忌部神社

当社の祭神は、天日鷲命・神言筥女命・天太玉命・神比理能売命・津作具命・長白羽命・由布州主命・衣織比女命である、往時には里岩と呼ばれる所にあったが応永12年(1396)秋の地震で社地が崩れ、現地に祀られるようになったと言われています。